シカゴ・ブルズの最初の黄金期をエースとして支えたボブ・ラブ氏。彼の付けていた背番号『10』は、ブルズの永久欠番としてNBAの歴史に名を刻みました。

一方で幼少期から続く吃音によって、彼の人生はまさに波乱万丈。苦難続きの人生を歩むことになるのですが、目の前に高い壁があればあるほど、それを越える力を身につけ乗り越えていきます。

まさに人生そのものが『物語』であるかのようなボブ・ラブ氏の半生をご紹介します。

えっ!?
自宅でできる吃音の克服法!?

今の時代、インターネットを使えば悩みの99%は解決できると言われています。僕にもできました、次はあなたの番です。

貧しい生い立ち

9人の子どもを持つ林下清志さんが『ビックダディー』と呼ばれる由縁は、ご存知の通り子どもが9人もいる大家族だからですよね。

僕にも子どもが4人いて、経済的に精神的に体力的にヒィヒィ言いながら毎日を送っています。

日本では子どもが4人以上いる家庭の割合は、2010年の時点で2%ほどであるとのデータがあります。

さらに10年近く経った今、その数字は1%程度になっているのではないかと予想され『稀』な家庭として、街を歩けば注目の的となっています。

“上には上がいる”とはよく言ったもので、ここでの主人公であるボブ・ラブ氏は、なんと14人兄弟の一人として生を受けました。

彼の父親はそんな大家族を置いて出て行ってしまったため、母親と祖母で養ったそうです。

スポーツをするにも道具を買うことができなかったため、バスケットゴールをハンガーで作り、靴下を丸めたボールを使ってバスケットボールをしていました。

彼が本物のバスケットボールを手に入れたのは、8年生(日本の中学2年生)の時だと言われています。

裕福とはかけ離れた暮らし、アメリカの南部に色濃く残る黒人差別、さらには吃音というハンデを背負っての人生幕開けとなりました。

頭角を現す学生時代

モラハウス高校に進学したラブ・ボブ氏はバスケットボールとフットボールに没頭します。圧倒的な身体能力に加え、人柄の良さからか周囲からのサポートも得られ、大きく成長することができました。

栄養失調により倒れることがあった彼に、ポケットマネーで食事をさせてくれたこと、吃音により指示を出すことに苦労していた際には、歌を歌うことで解決に導いてくれたことなど、当時のフットボールのコーチから愛されていたことが分かります。

吃音者は感受性が高い傾向にあり、気配りがよくできたり、人の感情をいち早く察知することができます。また一度何かを始めると”ひたむき”な姿勢で取り組める当事者が多いと感じます。

イジメを受けていたと話すボブ・ラブ氏ですが、吃音者特有の人間味の部分を見てくれる味方も多くいたのではないかと思います。

サザン大学には奨学金を貰って進学し、ここでもカレッジスター選手として活躍するほどの成長をみせ、オールアメリカンにも選出されました。

大学では社交性も身につけることができ、ようやくこれまでの苦労が報われようとしていました。

しかしボブ・ラブ氏を待ち受けていたのは、やはり『試練』の方でした。

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苦難のNBA

1965年のNBAドラフト会議にてシンシナティ・ロイヤルズから指名を受けることができたボブ・ラブ氏。

しかしオールアメリカンに選出されるほどの実績があったものの、バスケットボールにおけるサザン大学の評価は低く『無名校』という理由から、4巡目33位という低評価となりました。

結局、シンシナティ・ロイヤルズとは契約に至らず、イースタン・バスケットボール・リーグ(独立リーグ)でプレーします。ここで平均25得点をあげ1965-66シーズンの新人王に選ばれました。

翌シーズン、ロイヤルズのトライアウトに合格し、年8000ドルの契約を結ぶことができました。しかし1966-68の2シーズンでは平均6.5点と実績を残すことはできませんでした。

1968年、エクスパンション・ドラフトでミルウォーキー・バックスに移籍します。

当チームには絶対的な選手が定着しておらず、ボブ・ラブ氏にとっては非常に大きなチャンスとなります。

しかし、ここでも目立った成績を残すことができずシーズン中にシカゴ・ブルズへと移籍になります。

吃音はただの副産物であるという考え方があります。表面(症状)だけを見ている人にとって、それはただの邪魔物でしかありませんが、本質(人間性や取組む姿勢)を見てくれる人は世の中に必ずいます。

ボブ・ラブにとってシカゴ・ブルズへの移籍は大きな分岐点となりました。

ここで彼の本質を見抜き、才能を開花させたヘッドコーチと出会うことになるのです。

開花する才能

1969年、シカゴ・ブルズにディック・モッタ氏がヘッドコーチに就任し、ラブ・ボブの才能を見抜きます。モッタ氏の就任を機に彼は頭角を現しました。

これまでの成績が嘘の様に、初シーズンからエーススコワラーへと変貌し、キャリア平均を大幅に上回る21.0得点8.7リバウンドをマークしました。

以後6シーズン連続でアベレージ20得点以上を達成した彼は全盛期を迎えます。

ボブ・ラブの好調を受け、チームとしても最初の黄金期となりました。

1970-71シーズンでは25.2得点8.5リバウンドを記録、オールスターとオールNBA2ndチームに初選出されました。

1971-72シーズンにはさらに成績を伸ばし25.8得点を記録、オールNBA2ndチームとオールディフェンシブ2ndチームに同時に選出など、4シーズン連続で50勝以上となるチームの勝利に貢献しました。

1974-75シーズンには初の地区優勝を飾ります。

攻守両面で牽引するエースとして支えたボブ・ラブ氏ですが、背中の故障により1975-76シーズンを境にプレイの質は落ち始め、1978年に引退することになります。

シカゴ・ブルズであげた通算12,623得点は、引退の時点でチーム記録となっており、マイケル・ジョーダン、スコッティ・ピッペンに次ぐ第3位の記録となっています(2008年時点)。

最近では小島慶子さんが発達障害を告白するなど、著名人があえて自分の弱点をカミングアウトする世の中になってきました。

吃音についてもメジャーリーグで活躍するジョージ・スプリンガー氏や、プロゴルファーのタイガー・ウッズ氏、サッカー選手のロドリゲス・ハメス 氏が相次いで告白しています。

しかしボブ・ラブ氏が活躍していた1970年代においては、まだまだ障害などで差別的な扱いを受けていました。

シカゴ・ブルズでもボブ・ラブ氏の吃音によって、ファンに悪影響を与えるとしてテレビのインタビューやCM出演を極力控えさせていたと言われています。

引退後に待ち受けていた不幸

バスケットボールで大成功を収めたボブ・ラブ氏でしたが、引退後にも苦難が待ち受けていました。

選手時代に負った背中の故障によって、医者から「二度と歩けなくなるかもしれない」と診断されてしまうのです。

さらに妻からは「吃音症でさらに身体障害者とは結婚したくなかった」と言い残し、彼の元から去っていきました。

背中の手術を受け、懸命なリハビリによって私生活では支障のない程度にまで回復したものの、吃音がネックとなり7年間定職に就けず、全財産を失いました。

45歳からの好転

全米でも有数の大型百貨店チェーンのノードストロームで時給4ドル45セントの給料で食いつないでいたボブ・ラブ氏。

かつての栄光に奢ることなく、勤勉に働く姿をオーナーが見ていてくれました。

彼にオーナーは言語療法士を紹介し、治療費も肩代わりします。45歳となっていたボブ・ラブ氏ですが、やはり熱心にセラピーを受けたと言われています。

1987年、イリノイ州の高校生700人の前でスピーチを行いました。吃音が人生にどのような影響をもたらしたのかを語り、このスピーチが終わると同時に会場にはスタンディングオベーションが沸き起こりました。

ラブはその光景に涙を浮かべていたといいます。

見事、吃音を克服し、1993年にシカゴ・ブルズの広報活動部門のディレクターに就任。

またブルズの一員として歩み始めたのです。

全米でトップ5に入るスピーチの達人

今では全米でトップ5に入ると言われるほどのスピーチの達人となったボブ・ラブ氏。

年間200~300の公演を開き、25万人以上の聴衆の前でスピーチを行っています。

1995年12月8日にはユナイテッド・センターで試合のハーフタイム中に、シアトル時代に出会った女性と結婚式を挙げました。

一冊の小説を読み終えた様なボブ・ラブ氏の半生はいかがでしたでしょうか?

ちょうど僕も、この記事を書いている最中に仕事でプレゼンをする機会がありました。大きめな会議室に約50人ほど集まりました。

商談を決めるためのプレゼンというわけではく、日々の仕事に関する説明するといった内容です。

ボブ・ラブ氏に比べれば、それはそれはスケールが小さいものでしたが、吃音がある僕にとっては大舞台です。

もちろん、いっぱい練習しました。

暗記してしまうくらい繰り返し繰り返し。

本番では暗記した言葉を並べればいいだけなんですけど、自分でも意外だったんですけど、その時にフッと閃く言葉があったりするんですよね。

家で練習している時には、思いもよらない閃きが。

そんな閃きの言葉は、聴いてくれている人達の笑いを生んでくれました。

もちろん、笑いよりもどもった回数の方が多いけれど、新しい自分の一面を発見できる良い機会となりました。

吃音によって苦しみ続けたボブ・ラブ氏は、今や全米でトップ5に入るほどの達人です。

スケールは違えど、僕もプレゼンをやってみて良かったと感じています。

あなたも、プレゼンをする機会に恵まれたら、初めから出来ないと決めつけるよりも、思い切って挑戦してみると、新たな発見があるかもしれません。

今の時代、自宅で吃音の治療が受けられます