全日本フライ級新人王、OPBF東洋太平洋フライ級王者、WBC世界フライ級王者など、ボクシング界における最高峰のタイトルを総なめにしてきた内藤大助氏(以降 敬称略)。

ボクシングの輝かしい功績からは、順風満帆な人生を歩んでいるようにみえますが、実は非常に苦労をしてきた苦労人です。

それは内藤が母親のお腹の中にいる頃から始まり、内藤は父親の顔を見たことがないといいます。母親は厳しい人で、世界タイトルを獲った時でさえ、「おめでとう」の言葉はなく、「後援会の人達に挨拶に行きない」と言ったそうです。

中学時代にはイジメにあい、就職も失敗するなど散々な半生を送ります。

ボクシングにしても、決して楽な道のりではありませんでした。WBC世界フライ級王者には3度目に渡ってポンサクレック氏に挑み、悲願の世界王者となりました。

吃音があることも有名な話しで、吃音やイジメの当事者にとっては、本当に勇気をもらえる存在です。

ここでは、そんな内藤について紐解いていきたいと思います。

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ボンビー(貧乏)とイジメられた学生時代

1974年8月30日、北海道虻田郡豊浦町で生まれた内藤は母親と4歳年上の兄の3人で暮らしていました。父親は内藤がお腹の中にいる時に離婚したため全く面識がなく、当時は母親の姓である『太田』を名乗っていました。

家の向かいには祖母が住んでおり、厳しい母親とは対照的に優しいおばあちゃんだったそうです。内藤にとって、唯一の甘えられる存在です。

女手ひとつで養うため経済的に余裕はなく、内藤の洋服はつぎはぎだらけの兄のお下がり、学校で購入する教材もお古、スキーの授業では学校が貸し出す古いウェアや用品を使っていました。

当時はバブル期ということもあり、皆、新しいモノを持ってたそうで、ついたあだ名は『ボンビー(貧乏)』でした。

家は窓がしっかり閉まらず、冬場には窓の枠に合わせてビニールを張って凌いだといいます。

内藤は小さい頃から運動が得意で、小学生までは人気者でした。しかし、中学2年生になると幼馴染の友人に目をつけられたことをキッカケに酷いイジメが始まりました。

人目に付かない部分を殴られたり、給食のおかずをとられたりなど嫌がらせを受けました。お小遣いをもらっていない内藤でしたが、貯めていた5000円もの大金をも取られたこともあったとか。

常に誰かの助けを求めていたが、友人には見て見ぬ振りされ、先生にも気がつかないふりをされ、厳しい母親にも相談することができなかったと語ります。

内藤はイジメのストレスから胃潰瘍になり、学校で薬を飲んでSOSを発信していましたが、先生はそんな内藤に対して「若い頃から胃潰瘍なんて大人になったら大変だぞ」と笑われたと語ります。

周りの人、特に大人達に本当に恵まれていなかったと思います。書籍『いじめられっ子のチャンピオンベルト』を読んでみると心が痛みました。

周りから助けが全く得られなかった学生時代、「神様なんていない」と思ったと語っていますが、後に内藤が世界王者のタイトルを獲得することができたのは、周りの人のおかげだと語り「僕は応援してくれる人のために、リングに上がる」と書籍の最後を締めくくりに至ります。

周りの人の大切さ、なにより『強さとはなにか』を内藤に教えたのは、やっぱりボクシングでした。

苦労して勝ち取った世界王者

高校では知合いのいない学校に入学することができ、本来の明るさを取り戻していきます。しかし、高校の友人と出かけに行った先で、中学時代のいじめっ子に遭遇し、友人の目の前で殴られるということがありました。友人の見ている前で殴られたことに、とてもショックを受けたと語っています。

高校では調理場のアルバイトを続け、3年生になるとその飲食店にて就職の内定が決まりました。しかし就職間近となった3年の終わりに、自身の身勝手な発言によって内定取消という事態に陥ります。

後に、この内定取消が自身の人生の分岐点になったと語ります。

就職に失敗した内藤は、定職に就くことが出来ずだらだらと過ごしていたところ、母親に「10年は帰ってくるな」と叱咤され上京。当時、兄が住んでいたアパートに住むことなり、定職が見つかるまで兄の職場にてアルバイトを始めます。

ある時、スポーツ雑誌を見ていたらボクシングジムの広告に目が止まり、胸が高鳴ったと話します。「地元に帰った時、いじめっ子に再び遭遇しても負けない強さが欲しい」という思いから、翌日、ボクシングジムの門を叩きます。

それからはボクシングにどんどんのめり込むようになり、初めに所属したボクシングジムではプロになれないと宮田ジムへの移籍。1996年10月11日にプロデビューを果たします。

プロテストに合格した内藤は母親に報告するも、格闘技が好きではなかった母からは、「あんな野蛮なスポーツはダメだ」と叱られたと話します。

その後、着々と勝利を重ね2年後の12月、全日本フライ級の新人王に輝きます。さらに2年後の2001年7月、日本フライ級王座に挑戦するチャンスが巡ってくるも、引き分けで王座獲得にはとどきませんでした。翌年、WBC世界フライ級王座に挑戦するチャンスが舞い込んでくるも、当時世界チャンピンだったポンサレック氏に世界フライ級タイトルマッチ史上最短記録となる1R34秒KO負けを喫しました。

この試合を通じて、内藤は世界の壁を感じたと話し、メディアでは『日本の恥』として取り上げられました。内藤は病院で睡眠薬を出してもらうほど、眠れない日々が続いたと語ります。

「せめて、日本タイトルを取ってから辞めよう」そう思い、またボクシングに没頭する日々に戻っていきました。

あの惨敗から2年、地道に勝利を積み重ね日本ランキングを1位とした2004年6月、日本タイトルをかけた挑戦に駒を進めることができました。

当時のチャンピオンは中野選手。開始早々にダウンを奪い、6ラウンドの途中で中野選手の額の傷により負傷判定となる激闘の末、念願だった日本フライ級王者のベルトを獲得しました。

判定のコールと共に、嗚咽が出るほど泣きじゃくっている姿は印象的でした。

勝利者インタビューでは、「もういい。もう、いいんです。」とボクシングへの未練はなく、辞めようと思っていたと語ります。

「もういい」といった内藤の戦いは、ここからが始まりだったのです。

小嶋選手、榎本選手と2度の防衛に成功した内藤。2005年10月、2度目となるWBC世界フライ級王座に挑戦します。チャンピオンとして君臨するのは11度の防衛に成功しているポンサレック選手でした。

第1ラウンドにて好調な滑り出しをしたものの、迎える第2ラウンドでアクシデントが起きました。右目の上を深くカットしてしまい、この試合は短期戦を余儀なくされました。結局、第7ラウンドまでもつれ込み、結果は判定負けに。

ここでも気持ちが切れなかった内藤。もう一度世界タイトルへの挑戦権を手に入れるために走り出しました。

途中、東洋太平洋タイトルと自身の持つ日本タイトルをかけた戦い、史上初の統一戦が行われ、これに勝利。フライ級統一王者となった内藤だったが、妻の両親から「そろそろボクシングは辞めて、ちゃんとした定職についてみたらどうか」と訊ねられたといいます。

内藤は「世界までもうちょっとですから」と意気込みを話しました。

そして3度目となる世界タイトルへの挑戦権を手にするのです。

相手は、17回の防衛に成功しているポンサレック選手。内藤は内心「もうカンベンしてくれ」と思ったと語っています。

この世界タイトルマッチ、開催にこぎつけたもののスポンサーがついているわけではなかったため、資金の目処がついていないまま記者会見が開かれました。この記者会見の中で内藤は『スポンサー募集!』と書かれたボードを持たされるというところまで追い詰められていました。

前代未聞の記者会見、内藤は屈辱的な気持ちでボードを持ち続けました。

しかし、この異例の記者会見によってメディアでは大きく取り上げられたことにより、スポンサーが名乗りを上げてくれたのです。

さらには資金難を知った一般のファンからも「世界タイトルマッチの足しにしてほしい」と資金援助がありました。

内藤は心から感謝していると、著者『いじめられっ子のチャンピオンベルト』で語っています。

2007年7月、世界タイトルマッチ第1ラウンドではポンサレック選手が優勢の試合運びとなり、改めて相手の強さを痛感した内藤。それでも場内では『ナ・イ・ト・ウ』のコールが鳴り響きます。

最終第12ラウンドまでもつれ込んだ、この激闘は判定に委ねられます。

『採点の結果をお知らせします。ジャッジ、ヒューバート・ミン115対113、ジャッジ………以上、3対0の判定をもちまして、勝者、WBC世界フライ級”新”チャンピオン、・・・・・』

内藤は、ものすごい歓声によって自分の名前は聞こえなかったと、当時の様子を振り返っています。

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『内藤大助』という名が世の中に広まる

悲願の世界チャンピンオンとなった3ヶ月後、内藤に新たな刺客が待ち受けていました。世界チャンピオンとなって初の防衛戦、その相手となったのが亀田兄弟の次男である亀田大毅選手です。

圧倒的なビックネームを持つ亀田兄弟との試合は、『内藤大助』という名前を広めることに一役かいました。

試合内容としては内藤が圧倒したものの、度重なるラフプレーによって、試合中、内藤も怒りを露わにして交戦します。

ほぼフルマークという3-0の判定で勝利を収め、世界タイトルの防衛に成功しました。

翌日、亀田大毅選手は内藤の自宅を訪ね、謝罪したことで和解となりました。

この一戦によって内藤は、国民的な有名人となり、以降の試合は全てテレビ中継されるようになりました。またタレントとして活動も開始しました。

この後、数度の防衛に成功した内藤。世界チャンピオンの座から内藤を引きずり下ろしたのは亀田兄弟の長男、亀田興毅選手でした。

内藤は亀田兄弟との戦いを通じて、親子で一致団結して戦う姿を『羨ましい』と語っています。

試合以外でも多くの挑発を繰り広げる亀田兄弟。内藤は「自分からけしかけることはしないが、しかけられれば応戦する。これもボクシングの一つの楽しみであり、プロとしての仕事だ。」と胸をはります。

いじめられっ子のチャンピンオベルト

当記事は内藤が書いた書籍『いじめられっ子のチャンピンオベルト』を参考に作成しました。当書籍の中で、僕が最も印象に残っているエピソードに触れて終わりにしたいと思います。

“いじめっ子を見返してやりたい”

そう思ったのがキッカケで、内藤はボクシングを始めました。普通なら中学卒業以来 会っていないが、いつか会うことがあれば一発殴ってやりたいと思っているというオチで締めくくられるものです。

実は、内藤といじめっ子は早いうちに再開しており、内藤は見事に目標を達成させていました。

それは内藤が全日本新人王となった時のこと、地元の後援会が凱旋祝勝会を開いたその場に、いじめっ子がいたのです。

いじめっ子は「おめでとう」を言うわけでもなく、内藤にコピーした記事を突き出しました。記事には『元いじめられっ子、全日本新人王に!』という見出しが。いじめっ子は『中学時代にいじめにあっていたって書かれているけど、おまえをいじめたヤツって、誰だ?』と言い放ちました。

内藤は「お、お、お、おまえのことだよ・・・」と、心臓をバクバクさせどもりながら返したそうです。

いじめっ子な「やっぱり、オレか・・・」と暗い表情を浮かべた時、内藤の中にある何かが弾けたと振り返っています。

強さを手に入れたくて始めたボクシングだったが、拳を振るうことなく、内藤はいじめっ子に勝つことができたのです。

編集後記(吃音が最もつらいのか?)

内藤がいじめられっ子だったという話しは有名ですが、吃音があることについても当事者の中ではよく知られています。

そんな内藤の書籍を読んでみましたが、吃音に関する記述は一切ありませんでした。

また同じスポーツ界における吃音がある有名人といえば、長野オリンピックで金メダルを獲得した清水宏保選手が挙げられます。

清水選手が手掛けた書籍も読んだことがあるのですが、喘息に関する記述が多くあるのに、やっぱり吃音に関する記述は何処にも無いんですよね。

人には色々な悩みや生きづらさがあると思います。僕にも吃音や赤面症、閉所恐怖症、先端恐怖症、物忘れなどの生きづらさを抱えています。

その中でも吃音は、群を抜いて”辛い”障害であると僕は思っていました。

でも彼らにとっては、そうではないように感じました。

きっと、吃音で苦しんでいる人にとっては『世の中で最も辛いのは自分だ』と考えてしまうかもしれません。その気持ちは本当によく分かります。

でも上を見たらキリがない、下を見てもキリがありません。

世の中には自分よりも、もっと苦労している人はいっぱいいます。

吃音『なんて』とは口が裂けても言えませんが、吃音があるからこそ言葉の大切さが僕らには分かると思います。

吃音は感受性が高いことの副産物とも言われています。この高い感受性によって偉業を成し遂げた吃音のある有名人はいっぱいいます。

自暴自棄にならず、自分を信じて少しずつ進んでいけば、あなたにもチャンピオンベルトが見つかるはずです。

今の時代、自宅で吃音の治療が受けられます