テレビで見かけるといつも笑っているイメージがある木の実ナナさん。その笑顔からは人の良さが湧き水のように溢れ出しているようにさえ感じます。
今年で芸歴58年を迎え、年齢はなんと74歳。
とても70歳を超えているようには見えない若々しさを保ち、今でも現役バリバリの活躍を続けています。
そんな『明るい』イメージが定着している木の実ナナさんですが、実は苦労に苦労を重ねた人生を歩んできています。
- 物心がつく頃にはあった吃音。
- 外見から勘違いをされたイジメ。
- 酒浸りの父。
- うつ状態にまで陥った更年期障害。
とても感心できるのは、どんなに苦悩と直面しても最後には自分の糧としてプラスの経験だったと考えられるところです。
吃音がありながらも、芸能界という厳しい世界で生き抜いてこれたのは、そんな木の実ナナ哲学があったからだと思います。
木の実ナナの吃音
物心がつく頃にはすでに吃音がありました。
とくに「あ行」が苦手で、皮肉にも本名は『池田鞠子』と「い」で始まる。
自己紹介をするときにはいつも大変だったと言います。
学校の授業では国語はとても好きだったが、音読だけは苦手で、「次は池田さん読んで」と言われないように教科書を立てて顔を隠していたそうです。
同じ学校の一つ年下の後輩から、芸能プロダクションのオーディションがあるから一緒に来て欲しいと言われついて行くと、「あなたも歌ってみない?」と誘われます。
吃音のある木の実ナナさんでしたが、不思議と歌を歌うときは苦手な「あ行」でもスラスラと言葉が出てきました。
このオーディションで合格した木の実ナナさんは、布施明、三田明などのスターが誕生することとなる『ホイホイ・ミュージック・スクール』という番組にてデビューを果たします。
味の素がスポンサーを務める当番組は、木の実ナナさんの「アーッじのもととかけてなんと解く? 」というかけ声で始まります。
オープニングの一声には、毎回、脂汗がついてまわり、青痣ができるほど自分の太ももを思いっきりつねり、そのはずみで「あーっ」と発声していたため、それはほとんど悲鳴であったと自身の書籍『笑顔で乗り切る』で語っています。
皮肉なことに、このオープニングの一声は視聴者から面白い言い方だと好評だったと当時を振り返っています。
井上先生が書き上げた本格的な演劇『天保十二年のシェイクスピア』のキャストして声がかかった時、井上先生の自宅に訪ねて吃音のことを告白したといいます。
すると「そんなことは心配いらないよ。じつはぼくだって」と井上先生自身にも吃音があることを打ち明けてくれました。
演劇中「あたしは」という台詞に詰まり、太ももをつねっては青痣を作ったそうですが、井上先生の一言に救われたと話します。
男はつらいよシリーズである映画『男はつらいよ 寅次郎わが道をゆく』では「おにいちゃん」という台詞に詰まったそうです。
撮影は一日中断し、大勢のスタッフに迷惑をかけたものの、山田洋次監督は「失敗してもいいんだよ。誰にでも欠点はある。欠点のない人間なんて魅力がないよ。ナナちゃんも欠点があってよかったじゃないか」という言葉をかけてくれたことを語っています。
父と私
失って初めてそのモノの大切さに気付くことってありますよね?
僕は高価ではないものの、祖母に買ってもらった腕時計を無くしてしまった時、その腕時計の価値を知りました。
木の実ナナさんと父は生前、仲良し親子とは程遠い関係であったそうですが、父が他界してしまいその偉大さに気付いたといいます。
ここでは、木の実ナナさんと父との半生をご紹介します。
父と一緒の楽しい思い出は数えるくらいしかなかったそうで、後楽園ゆうえんち、千葉の海岸、大磯ロングビーチ、父の友人の別荘で過ごしたことが思い出として残っています。
父の友人の別荘以外は夏休みの出来事で、小中学校の9年間の夏休みで、たったの3回だけ。確かに少ないですよね。
木の実ナナさんは若い頃に、運命を感じた男性がいて結婚を考える時期がありました。
そんな話を父にしたら「ほう、どんな人なんだい。幸せになれよ」という言葉を期待していたそうですが、予想とは反して「馬鹿を言うんじゃない」とお酒の盃が顔に飛んできたといいます。
『私の人生はなんなんだ』と思うのと同時に、こんな父親に代わって、妹には幸せな結婚をさせるのだと誓ったそうです。
そんな父との別れは突然やってきました。
もともとトランペット奏者として活躍していましたが、時代の変化により仕事が減っていきます。
17歳でデビューした頃には、一家の稼ぎ頭は木の実ナナさんに変わり、父は酒浸りの生活を送るようになってしまいます。
お酒を止めることができなった父は、母の膝の上で他界してしまったそうです。
そんな父を木の実ナナさんは初めて抱きしめたそうで、抱きしめられたこともなかったそうですが、死をもって機会を与えてくれたと感謝し、一晩中寄り添っていたと振り返っています。
ちょうど、梅雨時で父はドライアイスに包まれていたため、木の実ナナさんは凍傷になってしまいました。
一周忌では遺品の整理をしていると写真が見つかり、木の実ナナさんや妹、母の笑顔が写っているのに、父が写っていないことに気が付き、撮る係だった父を思い出しては、こんなにも家族思いで、やさしくて、愛情深かったのだと、改めて父の偉大さを感じることができたと話します。
木の実ナナさんは芸能界において師匠と呼べる人がいないそうですが、ここまで活躍してこれたのは父の存在が大きかったと言います。
「自分は歌手だからといって、そうじゃない人達とは違う人間、特別な人間なんだとおもっちゃいけない。」
「仕事先で会うどんな人にも同じように接すること。劇場でエレベータのボタンを押してくれる人にもね。」
「テレビにでているからといって、テングになってはいけない。勉強しなきゃいけない。」
このような父からの教えは今でも木の実ナナさんの根底にあり、家族を養ってきたつもりだったけど、父とふたりで一人前だったのだと気が付いたと話します。
仕事を辞めたかった時もあったそうですが、やっぱり父がいたからこそ、前を向いて歩いてこれたと振り返っています。
更年期障害を乗り越えて
木の実ナナさんといえば、『更年期』や『鬱』といったイメージもあります。
自身の更年期の体験を赤裸々に語った書籍『キラッ!と女ざかり』では同じ悩みを持つ多くの女性に支持されています。
また2000年には新聞広告で「私は、バリバリの「鬱」です」というキャッチコピーで出演したこともあります。
今でこそ『更年期はいい女への登竜門だ』と笑顔で語る木の実ナナさんがいますが、当時の様子はまさに壮絶そのものです。
話好きだった木の実ナナさんでしたが、とても仲の良い友人から電話がかかってきても「ごめんね、またかけて」と電話をきってしまうことが多くなり、一人なりたいと家に籠るようになったといいます。
仕事中も汗が止まらず、集中力が続かないことも増えてきて、耳鳴りや動悸、イライラがついて回ったそうです。
どうしても耐えられない時には、トイレに駆け込み震えてをおさえることもあったそうで、しだいに『死んだほうが楽』だとも考えるようになっていったそうです。
- 窓の外を見ると発作的に飛び降りたい
- グラスを見ると握り潰したい
- 本を思いっきりやぶりたい
そんな考えが頻繁に頭をよぎるようになってしまい、うつ状態に陥ってしまった木の実ナナさん。
本を思いっきり破ろうと力を入れた瞬間、ヒラヒラと本の中から名刺が落ちてきたことに気が付きます。
その本はずいぶん前に大阪公演では必ず見にきてくれていたファンの方から、自分で読んで良い本だったものをプレゼントしてくれたもので、カード代わりに名刺が貼られていたのでした。
そのファンの方は精神科の先生で、木の実ナナさんの症状は『更年期障害』なのだと診断してくれたことで、対処の仕方が分かるようになり、順調に克服していくことになりました。
書籍では、『更年期というのは、厄年も無事に終わって、いい女に生まれ変わるための試練』なのだと最後にはポジティブに捉えていて、試練なんだから、ちょっとやそっとのショックでさなく、大きいな衝撃を伴うものだと話します。
『わたしには大きいショックをあたえないとわからないんじゃないかって、神様が配慮してくれた』という言葉が印象に残っています。
編集後記(木の実ナナさんの生き様)
- 吃音があること
- 結婚を認めてくれなかった父
- 死をも感じさせる試練(更年期)
普通ならこれらの経験は思い出したくもない負の遺産であり、堅く鍵を閉めて閉じ込めていたいものです。
でも木の実ナナさんの場合は、どんな経験であっても必ずプラスとなる側面を見つけては、自分の糧へと変えてしまう『生き様』は真似できることではありません。
出入りが激しい芸能界で長年活躍し続ける木の実ナナの裏側には、こんなにもたくさんの苦労と、それを肥やしにして成長してきた生き様があったことを知りました。
同じ吃音がある者として、この生き様を見習って生きてきたいと思う今日この頃でした。