活字を読みながら「クスッ」と笑う。
そんなお笑いの形があってもいいと思う。

「お笑い」といえばテレビやYouTubeなどの映像で楽しむのが一般的ですよね。
僕も仕事から帰ってきたらタブレットに電源を入れて、夜ご飯を食べながらお笑いを見るのが定番で、ついつい夜更かししてしまいます。
特にコロチキのナダルさんは、僕のツボによく入ります。

夜な夜な一人でバカ笑いしている僕ですが、昨日は一味違いました。

小説「花火」は、ピースの又吉直樹さんが著者で、お笑い芸人が芥川賞を受賞という快挙に日本が沸きましたね。
久しぶりに小説を読みたいと思った時、この「花火」が第一に僕の頭に浮かび上がり、昨夜に至ります。

シーンとした深夜に小説を読む。
なんとも味わい深い時間が流れます。
又吉さんはお笑い芸人だけあって、やっぱり面白いことを所々に散りばめて飽きさせません。
ラストシーンでは、登場人物の切実な想いとは裏腹に、読者として俯瞰して見ている僕はクスクスと笑いを止めることができませんでした。

活字を追いながら、時にクスッとできる。
なんとも大人な贅沢な時間だろうと感じました。
こんなお笑いも悪くないと思います。

ネタバレ注意※
まだ「花火」を読んでいない方は、この先はお控え下さい。ネタバレとなってしまい、本書の楽しみを奪いかねません。

ピースの又吉さんは、この「花火」でどんなことを表現したかったのか、どんなメッセージがあったのでしょう。
ここからは僕なりに「花火」を解釈してみたいと思います。

結論から言うと、小説「花火」は又吉直樹という人間の表側と裏側の葛藤を描いているのではないかと思います。

主人公の徳永は、人としても、お笑いに対しても真面目な性格。
まさに普段からテレビでいつも見ている又吉直樹さんを彷彿させます。
一方で、徳永の師匠である神谷才蔵は、独特の感性によって突き動かされる、根っからの漫才師。
本当はお笑い芸人・又吉直樹は、こうありたいと思いながらも、これまで押し殺してきた裏の顔なのではないでしょうか。

そんなところが伺えるのが下記のところ

自分が描きたい世界があったとしても露骨な表現が途中にある場合、そこに辿り着くことを断念してきた。神谷さんは、そんな僕の傾向を見抜き、不真面目だと言った。不良だとも言った。

本当は猥褻な表現を使ってでも面白いことを追求したい、お笑い芸人なら追求するべきだと思っていても、実際には一歩引いてしまう。
ぶれずに自分のスタイルを貫き通せない自分に、軽い人間のように思えてくると徳永を通じて又吉さんは回想しているのではないか。

徳永が漫才を辞めた時、神谷も姿を眩まします。
漫才から一歩引いた事で、裏の自分を押し殺したように、僕には見えました。
しかし、捨てたはずの漫才(本当にやりたいこと)は時間と共にフツフツと込み上げ、ラストシーンへと繋がるのではないでしょうか。

「いやいや、ちがうでしょ」
「私はこう感じたよ」
「こんなメッセージがあったんじゃない」

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