幸い、僕は一度だって『死のう』と思ったことはありません。

 

名前も言えない自分に腹が立ち
白い目で見られることに怯え
「吃音さえなかったら」と思う日々

 

発表会やプレゼンがあると前日から気にかかり、その日なにも手につかなくなります。
それが終わると別の恐怖を探しては、ドクッンと胸打ち重圧を自分に押し付けます。

 

そんな僕でも死の淵まではまだ距離があり、行ったり来たりしては程よい立ち位置であり続けています。

 

フッと横を見ると
120万人の吃音者がいて

 

遠くの方には、淵に向かってゆっくりと確実に足を運ぶ人達がいます。
中には死から帰ってくる人も見えます。

 

2013年北海道の札幌市、34歳で命を絶った看護師の自殺は、メディアにて大きく取り上げられたことを覚えています。

 

本当に辛かっただろう。
本当に悔しかっただろう。
本当に無念だったろう。

 

吃音がない人からしてみれば『話しづらいだけで、自殺なんて・・・』と思うかもしれません。
でも吃音当事者の僕からしてみれば、何も驚きはしませんでした。
吃音と死は、常に隣合わせだということを知っていたからです。

吃音者は死を感じてる

吃音は進展段階によって4つに区分されています。

 

第1層では連発・伸発の症状がみられるものの、吃音があることを本人が認識していない状態を指します。

第2層では難発・随伴運動が症状として加わり、吃音を自覚した状態を指します。

第3層では「あの」や「えっと」などの助走や言葉の言い換えなど、吃音を隠す工夫をした状態を指します。

第4層で『回避』が加わります。

 

吃音治療の専門家が最も恐れているのが、第4層で加わる回避です。
・学校で発表がある日は、学校に行かない
・電話がなっていても気が付かないフリ
・人と話すことを避ける
通常、上記のような話す場面を避ける行動を回避と呼んでいますが、さらに一つ究極の回避が存在します。

 

それが“死”です。

 

話すことを避けるようになり
話す場面から避けるようになり
人を避けるようになり
今後の人生を悲観するようになる

 

一度でも避けてしまうと、それは癖になりいずれは習慣となってしまいます。
話す意欲を失われ、人と接することに恐怖することで、死を感じ・考えてしまうことは容易に想像できます。

 

僕は死を考えたことはありませんが、死を感じたことはあります。
それに死を考えてしまうほどの苦痛であることもよく知っています。
僕が死を考えなかったのは、周りの人のおかげだなと、つくづく思います。

 

中には真似したり、バカにする大バカ者もいましたが、それ以上に吃音を気にしないで付き合ってくれた友がいた事に感謝しています。

 

もし、あなたに、そう思えるような人がいないと考えているなら。
もし、あなたが死を考えているなら。

 

是非とも、見てもらいたい書籍があります。

書籍『吃音 伝えられないもどかしさ』とは

書籍『吃音 伝えられないもどかしさ』では、死の淵を歩く様々な吃音当事者が登場するノンフィクション作品です。
吃音という生きづらさを抱えながら、もがき苦しんで生きていく姿をリアルに描かれています。

  • 自殺を図り死にきれなかった男性
  • 49歳でも悩み続ける男性
  • 子どもの吃音に悩む母親
  • 夢を諦めた女性
  • 究極の回避をした看護師

 

この書籍では約5年に渡って追跡取材をしていることもあり、歳を重ねるにつれ当事者にどんな心境の変化があったのかなどが細かく刻まれています。

 

すごく辛い時期があり
それを乗り越えるために試行錯誤があって
その先に何があったのか?

 

この書籍を見て感じたことは、当事者全員に『その先』があることです。
それは必ずしも吃音が無くなるということではなく、その人になりの出口が見えるということです。
もちろん中には吃音が無くなったという当事者もいて、著者の近藤さんもその一人だと言います。

 

登場する当事者の中には、重度の吃音を患っていましたが、発話をコントロールする治療によって流暢にプレゼンができるまでに改善された例もありました。
この男性はさらなる取り組みとして、コントロールしなくても流暢に話せるように改善を重ねているようです。

 

ただ一人、究極の回避という死を選択してしまった看護師にだけ『その先』はありませんでした。

 

当書籍では、
『生きる』ことにベクトルを向けてくれ、吃音に対してどう向き合うべきかを考える機会を与えてくれます。

 

ただ「こんな人がいたよ」とか「こんなことをしていたよ」とか在り来たりな言葉を並べるだけではなく、様々な専門家への取材によって信頼性のある見解や治療法なども紹介されています。

 

その中には、あなたに会う治療法が記載されているかもしれません。

共に生きるか、消失を望むか

 

吃音と共に生きるか?
吃音の消失を望むか?

 

あなたはどちらを選びますか?

 

1966年に吃音の当事者同士の集まりであるセルフヘルプグループ『言友会』が発足し、10年後の1976年に『吃音者宣言』が発表されました。
ここには吃音を受け入れ、共に生きていこうといった内容が書かれています。

 

またアメリカの吃音協会の創設者であるマルコム・フレーザさんが提唱した『ことばの自己療法』12の原則の一つには、『公然とどもり、自分が吃音者であることを隠さないようにしなさい。』とあります。

 

僕も吃音と共に生きていこうと決意した一人です。

 

アメリカの吃音研究の第一人者であるウェンデル・ジョンソンは、「吃音の悩みの大きさは”箱”の体積で考えられる」と言及しており、僕はこの考え方によって救われました。

 

発生頻度 × 感情 × 環境 = 悩み

 

発生頻度とは、吃音が”軽い”とか”重い”といった吃音症状の程度を表しています。
感情とは、吃音に対する自分の感情を表しています。
環境とは、自分の周りが吃音に対してどのような反応をするかを表しています。

 

この公式の重要なポイントは『掛け算』であることです。
つまり3つの内1つでも『0』にすることができれば、吃音はもはや悩みではなくなるということを示しています。

 

本当の意味で、吃音を受け入れることができれば、自分の感情を『0』にすることができ、永きに渡る吃音の悩みを解消することができるのです。

 

現に僕は今でも吃りますが、吃音を悩みとして捉えることはなくなりました。

 

一方で、やはり吃音の症状そのものをなくしたいといった考え方も当然あります。
書籍『吃音 伝えられないもどかしさ』でも、重度の吃音に悩んでいた男性が、流暢にプレゼンできるまで改善させながらも、吃音の消失を切望する姿は、僕の心の奥深くにある感情のようにも思いました。

 

当書籍では吃音当事者の経歴に加え、原因や治療法などにも述べられており、現代における吃音の情報を得ることができます。
また言友会をはじめ、吃音当事者同士の繋がりとなる場も示されています。

 

あなたと吃音。

 

どんな『その先』になるか

そのヒントが見つかる書籍です。